2011年4月15日金曜日

こんな感じかな?途中までだけど

プロローグ

 川島みなみが野球部のマネージャーになったのは、高校二年生の七月半ば、夏休み直前のことだった。
 それは突然のことだった。ほんの少し前まで、みなみはまさか自分が野球部のマネージャーになるとは思っていなかった。それまでは、どこの部活にも所属していないただの女子高生にすぎなかった。野球部とは縁もゆかりもなかった。
 ところが、思いもよらない事情から野球部のマネージャーをすることとなった。そのため、二年生の夏休み前という中途半端な時期ではあったが、野球部に入部したのである。
 マネージャーになったみなみには、一つの目標があった。それは、「野球部を甲子園に連れていく」ということだった。彼女はそのためにマネージャーになったのだ。
 それは夢などというあやふやなものではなかった。願望ですらなかった。明確な目標だった。使命だった。みなみは、野球部を甲子園に連れて「いきたい」とは考えていなかった。連れて「いく」と決めたのだ。
 しかし、そう決めたはいいものの、どうしたらそれを実現できるか、具体的なアイデアがあるわけではなかった。前述したように、これまで野球部とは無縁の生活を送ってきた。だから、野球部はおろか、マネージャーのこともよく分かっていなかったのだ。
 しかしみなみは、それを全く気にしていなかった。なんとかなる─と単純に考えていた。彼女にはそういうところがあった。考えるより先に、まず行動するのだ。
 野球部のマネージャーになったのもそうだった。「どうやったら野球部を甲子園に連れていけるか」と考える前に、まず「野球部を甲子園に連れていく」と決めてしまった。そして、そう決めたらもう考えるのをやめ、すぐ行動に移したのである。

第一章 みなみは『けいおん』と出会った

 みなみが通っていたのは、「東京都立程久保高校」という公立の普通高校だった。
 程久保高校─通称「程高」は、東京の西武、関東平野が終わって多摩の兵陸地帯が始まる、大小さまざまな丘の連なる一角にあった。
 校舎は、そんな丘の一つ、見晴らしのよい高台の上に建っていた。教室の窓からは、遠く奥多摩の連山や、晴れた日には富士山まで見通せた。
 その一帯は、昭和の半ばに山林を伐り開いてできたベッドタウンで、周辺にはまだ雑木林も多く残り、東京とはいえ自然豊かなところだった。
 程高は進学校だった。偏差値は六十を超え、大学進学率はほぼ百パーセントで、毎年数名の東大合格者を出すほどだった。
 それに比べると、スポーツの方はさっぱりだった。部活動そのものは盛んだったが、全国大会に出るような強豪は一つもなかった。
 それは野球部も同じだった。けっして弱くはなかったが、強くもなかった。甲子園を狙えるようなレベルにはなかった。これまでの最高は、もう二十年以上も前に一度だけ五回戦(ベスト16)に進出したことがあるだけで、いつもはよくて三回戦止まりだった。
 そのことはみなみも知っていた。だから、もともと今の野球部に大きな期待をしていたわけではなかったが、それでも、いざ入部してみると愕然とさせられた。現状が、あまりにもお粗末だったからだ。これでは、甲子園はおろか、一回戦を勝ち抜くのさえどうかと思わされた。
 みなみがマネージャーになったのは、夏の都予選に負けて三年生が引退した直後だった。だからというのもあったが、この時期の練習にはほとんどの部員が参加していなかった。
 別に休みというわけではなかった。練習はちゃんと行われていた。それにもかかわらず、多くの部員がほとんどなんの理由もなしに、またなんの報告もなしで、練習をサボっていたのである。
 この頃の野球部には、そういう雰囲気があった。出るのも休むのも全くの自由。自由という聞こえはいいが、単に規律がないだけであった。いくら休もうと、いくらサボろうと、なんのおとがめもなしだったのである。
 みなみが初めて練習に参加した日、出席していたのはたったの五名だけだった。部員は全部で二十三名だったから、四分の三以上が欠席していたことになる。しかも、そういう状態が約一週間続いた。そうして、あっという間に夏休みが目前に迫った。
 それで、さすがにみなみも少し焦った。このまま何もせず夏休みに入ってしまうのはいやだった。せめて自分の思いくらいは誰かに伝えておきたかった。そのうえで、自分の考えに賛同してくれたり、協力を申し出てくれる仲間を募りたかった。
 そこで彼女は、監督と、出席していた数少ない部員たちに対して、こう打ち明けた。
「私は、この野球部を甲子園に連れていきたいんです」
 すると、それに対してさまざまな答えが返ってきた。真剣に聞いてくれた者もいれば、軽く受け流した者もいた。中にも、ほとんど要領を得ない答えもあった。しかし、その全てに共通していたのは、どれも否定的なことだった。
 監督の加地誠は、こう言った。
「それはさすがにムリじゃないかな。甲子園大会が始まってもう九十年以上になるけど、西東京地区で都立校が甲子園に出場したのはこれまでたったの一校、都立国立高校だけだからね。それでなくとも西東京は、私立の強豪がひしめく激戦区で、桜美林、日大三高、早稲田実業と、甲子園優勝経験校が三つもある。甲子園に出場するには、そうした私立の強豪をいくつも倒さなければならないんだよ。その目標は、あまりにも現実とかけ離れているよ」
 キャプテンの星出純は、こう言った。
「それは正直厳しいよ。うちの部員たちは、甲子園に出るために野球をやってるわけじゃないからね。身体を鍛えたり、仲間を作ったり、高校時代の思い出を作るためだったり……後は、子供の頃からの惰性とか、他にやることがないからってやつもいるし。そういう連中に『甲子園を目指そう』と言ったって、誰もついてこないんじゃないかな」
 野手の要、キャッチャーの柏木次郎はこう言った。
「あのさ、それはやっぱり難しいと思うよ。気持ちは分かるけど、へたに甲子園なんか目指したりすると、かえって行けなかった時のショックが大きくなるんじゃないかな?だったら、初めから大きなことは言わないで、三回戦突破くらいを目標にしておいた方が無難だよ」
 それから、一転して声を潜めると、こんなふうに尋ねてきた。
「ところで、おまえ、本気なのかよ。本気でマネージャーをやるつもりなのか?前のことはもういいのか?……だって、前はあれほど野球を嫌って─」
 しかしみなみは、次郎のことをジロリとにらむと、言葉を遮るように言った。
「誰かに余計なことしゃべったら、許さないからね」
「それは……分かってるよ」と、次郎はひょいと首をすくめてみせた。
 最後に尋ねた一年生女子マネージャー、北条文乃はこう言った。
「え?あ、はい。甲子園ですか?え、あ、はい。そうですね……いえ、あの、別に……。あ、はい……」
 そう答えたきり、彼女は何も言わなくなってしまった。
 結局、みなみの考えに賛同したり、協力を申し出たりする人間は、一人もいなかった。
 それでも、彼女はへこたれたりはしなかった。逆にモチベーションを高めていた。
 面白い─とみなみは思った。誰かに相手にされないからこそ、逆にやりがいもあるというものだ。
 みなみには、そういうところがあった。逆境になればなるほど、闘志をかき立てられるのだ。
 それに、みなみには全くなんの味方もないわけではなかった。この頃までに、彼女は一つの強力な見方を得ていた。
 
 
 野球部のマネージャーになって、みなみがまず初めにしたことは、「マネージャー」という言葉の意味を調べることだった。それがどういう意味かということさえ、彼女はよく知らなかったのだ。
 そこで、家にあった広辞苑を引いてみた。すると、そこにはこうあった。

マネージャー【manager】支配人。経営者。管理人。監督。

 次に、今度は近所の大型書店に出かけていった。そこで、マネージャーについて、何か具体的に書かれている本を見つけようとしたのだ。
 本屋さんまでやって来た彼女は、店員にこう尋ねた。
「何か『マネージャー』に関する本はありますか?」
 するとそのどこかヲタクっぽい中年の男性店員は、一旦店の奥に引っ込むと、すぐに一冊の本を手にして戻ってきた。それを差し出しながら、彼はこう言った。
「これなんかいかがでしょうか?これは最初『マネージャー』なんてどうかな?と言った主人公が出ている作品なんですよ。我々の世界の中で最も熱い作品ですね。最近書かれたものなんですけど、爆発的な売り上げを見せていますよ。初めての人にはアニメもお薦めしています」
 そこでみなみは、その本を手にとって見てみた。タイトルには、ズバリ『けいおん』とあった。著者はかきふらいとなっていた。
 そうして彼女は、中身も見ずにその本を買い求めた。値段は八百円くらいと少し高かったものの、(どこのとは言わないが)世界で一番読まれた本というのが気に入った。
 それに、あれこれ考えてもしょうがない─という思いもあった。
 ─もともと「マネージャー」という言葉の意味さえ知らなかったのだ。そんな自分に本の良し悪しなど分からない。こういう時は、あれこれ考えず、まずは買って読んでみるに限る。
 本を買ったみなみは、家に帰ると早速それを読み始めた。しかし、読んですぐに後悔し始めた。本の中に、野球についての話がちっとも出てこなかったからだ。それは、野球と無関係の「軽音楽部」について書かれた本だった。
 おかげで、みなみは自分にうんざりさせられた。
 ─せめて、野球について書かれているかどうかくらい確認すればよかった。せっかちにもほどがある。今度からは、少なくとも中身くらいは確認しよう。
 それでも、すぐに気持ちを切り替え、その先を読み進めた。
 ─せっかく八百円くらいも出したのだから、読むだけは読んでみよう。野球に関係なくても「(どこのとは言わないが)世界で一番読まれた」ことには変わりないわけだから、何かの参考にはなるだろう。
 そんなふうに、みなみには反省してもすぐ気持ちを切り替えてしまうところがあった。おかげで、落ち込むことが少ない代わりに、せっかちな性格が改善されることもなかなかなかった。
 ところが、そうやって読み進めてみると、その本は意外に面白かった。また、単に「軽音楽部」についてだけ書いてあるわけではないというのも次第に分かってきた。そこには、女子高生がゆったりと過ごす「学園生活」についてが書かれていた。
 そして、それなら野球部に当てはまらないこともなかった。野球部も、学園生活の一部であるからだ。
 それが分かって、みなみはホッとした。
 ─この本も、全くのムダではなかったのだ。
 ただ、そうしたことは抜きにしても、その本は面白かった。なんとなく何かとても重要な、だいじなことが書かれているというのはよく分かった。言葉の一つひとつが、とても軽く、また貴重?なものとして受け止められた。
 それに魅了されたみなみは、夢中になって読み進めていった。ところが、三分の一ほどのところまで来た時だった。不意に、心にコツンと小石のぶつかるような感覚を覚えた。
 それは、本の中に書かれていたある言葉に目が留まったからだった。そこにはこう書かれていた。

あんまりうまくないですね

 それで、ドキッとしたのである。
 これを見て、みなみは思った。
 ─きっと、ここにはとてつもなく深い話が隠されているに違いない。
 そして、こう心配した。
 ─もし、それに気づかなかったらどうしよう!
 みなみは、それだけは絶対に避けたいと思った。それは、自分にマネージャー失格の烙印を押されるようなものだと思ったからだ。そして、野球部を甲子園に連れていくという自分の目標も、無理だと宣言されるようなものだと思った。
 おそらく、他の誰かからそうしたことを言われても、ほとんど気にしなかったろう。事実、野球部のみんなには否定されたが、ちっとも気にしていなかった。
 しかし、この本からだけは、特にあの主人公からは、そうしたことを言われたくなかった。それは、この本が(どこのとは言わないが)世界で一番読まれているものだということもあったけれど、みなみ自身、この本に大きな魅力を感じていたからでもあった。
 もっといえば、この本を好きになりかけていたのである。だから、その好きになりかけていた本から自分を否定されるのは、絶対に避けたいと思ったのだ。
 それで、みなみはドキドキしながらその先を読み進めた。すると、主人公がまさかの正式部員になってしまったのだ。
 その瞬間、みなみは電撃に打たれたようなショックを覚えた。そのため、思わず本から顔をあげると、しばらく呆然とさせられた。
 しかし、やがて気を取り直すと、再び本に目を戻し、その先を読み進めた。すると、超ハッピー的に部員たちに歓迎されていたのだ。
 みなみは、その部分を繰り返し読んだ。特に、歓迎されているところを繰り返し読んだ。
 ─マネージャーではない。正式部員である。
 それから、ポツリと一言、こうつぶやいた。
「……あんまりうまくないですね」
 ところが、その瞬間であった。突然、目から涙があふれ出してきた。
 それで、みなみはびっくりさせられた。自分がなんで泣くのか、よく分からなかったからだ。しかし、涙は後から後からあふれてきた。それだけでなく、喉の奥からは嗚咽も込みあげてきた。
 おかげで、みなみはもうそれ以上本を読み進めることができなくなってしまった。そのため、本を閉じると机の上に突っ伏し、しばらく涙があふれるのに任せていた。
 読み始めてからだいぶ時間が経ち、もう日も暮れかけて薄暗くなった自分の部屋で、みなみは一人、しばらくさめざめと泣き続けていた。

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